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大日本水産会
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2003年1月28日
BUTTON 環境運動の進展
国際水産団体連合(ICFA)
事務局長・ジャスティン・ルブラン

環境運動は、過去100年の間にその問題提起及び戦術という意味の双方でおおきな展開を遂げてきた。

第二次世界大戦後、人類に対する自然の恩恵(材木採取のための森林、レクリエーションのための国立公園、狩猟や漁業のための魚類・野生生物)に焦点を合わせた環境保存倫理にはじまり、環境運動は、(1)環境保全(2)動物権擁護という二つの問題を焦点に展開してきた。

環境保全の運動はいまだその大部分において人間中心的である。水質浄化、大気浄化、汚染防止のイニシアティブは、人類のために環境の質を改善する目的で世界中で実施されていた。

同時に、動物権運動は、他の動物を人道的に扱い、象やサイ、クジラなどのカリスマ性のある巨大動物の絶滅を防ぐという願望から始まった。時の経過とともにこれらの運動は、これらの「特別な」動物を保護するだけでなく、それらが依存する生息域も保護するとの呼びかけと合体し始めた。この生息域を保護するとの問題提起は、自然の生態系に「内在的価値」を見る、より幅広い生態系の保存あるいは生物多様性の問題提起へとさらに進展した。同時に動物権の問題は、他の種の人道的扱い及び保存から、「神聖視」されたの公然とした保護へと変化していった。

これらの「内在的価値」と「神聖な立場」という問題提起は、その核心にある自然の精神的あるいは宗教的評価、反人間的、反産業的、反開発的評価に基本的に根を置いている。人間が藁葺き小屋にすみ、単純な道具を使い、土地にしたがって住み、古代の人たちが経験したような死や疫病、飢えを無視するときに、世界はよりよい場所になると心から信ずる人々が信奉している。

環境運動のこの進展が意味するところは、2003年に商業魚類・シーフード業界が合理的な科学と情報で優位に立てる政策上の議論には直面していないということである。それはより文化的な戦争に近い。そして、時の勢いは我々の側にはない。一般市民が、コンビニ、近代的な住宅、ショッピング・センター、自動車などの普及により、自然の世界からますます離れていくにつれ、自然は、古代の芸術作品の保存と同じように保護すべき抽象的な概念になっている。一般の市民が依存している資源が自然を基にしているという事実は忘れ去られている。

戦術的に、環境運動は、科学と法律という舞台から、一般的な訴えかけ、草の根キャンペーンへと進化してきた。調査、教育、政府の政策の変更に焦点を合わせた環境イニシアティブの財団基金集めに始まったが、環境運動の過激な活動家たちは、政府の諸計画の進展の「遅さ」に苛立ちを覚え、自分たちの問題提起を一般人に直接訴えた。効果的な広報活動や誇大宣伝によって、これらの団体は、より多くの一般市民を動員し、より急速で(より過激な)変化を求めた。彼等は、法律や規則を強行的に通すために草の根のイニシアティブを用いた。そして、規則が法律の解釈と合致しない場合は、彼等は法的手段を通じてそれを変えようと努めた。

しかし、環境運動は、ますますさまざまの機関に影響力を浸透させることでこのプロセスを先取りしている。何年にもわたり、それらの財団は、環境運動の問題提起と一致する研究、教育を支持してきた。これは、実務レベルで、学術機関、政府機関及び国際機関に浸透するイデオロギー信奉者の世代を生み出した。これらの官僚制度内部の事実上の「意思決定者たち」は、「内在的価値」及び「神聖な位置付け」という自らがでっち上げた預言を実現させている。その目標はもはや、人間のための自然ではなく、人類の存在や介入なしの人間を無視した自然である。